『Résonances : 東京大学大学院総合文化研究科フランス語系学生論文集』(ISSN:13482262)目次:第1号から第5号
第7号以降はこちらをご覧ください。
[第5号] 2007年
論文
大原 宣久 | 自伝と精神分析 — ミシェル・レリス『フルビ』読解 |
中田 健太郎 | シュルレアリスムの時間性 — アンドレ・ブルトンとマルセル・デュシャンの言語論 |
篠原 学 | 「非–参加」から「はじらい」へ — ミラン・クンデラを読む |
鵜戸 聡 | 宿命のネジュマ — カテブ・ヤシン論序説 |
坂口 周輔 | 何ものでもない形象 — マラルメのワーグナー論をめぐって |
谷本 道昭 | 不純なジャンルのために — バルザック、コント作家の肖像 |
数森 寛子 | 「蝕む」とは何か — ヴィクトル・ユゴー『海に働く人々』をめぐって |
坂本 さやか | 歴史の語りと王権のスペクタクル — ミシュレの『フランス史』における入市式と聖史劇 |
南 玲子 | 近代的学問としての国民性研究に向けて — モンテスキュー『法の精神』と後継者たち |
中村 督 | フランスにおけるニュース週刊誌の発刊 — 『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』における「発見」の時代について |
竹本 研史 | ただ祈り続けること — ジャン=ポール・サルトルにおける他者からの眼差しと他者への祈り |
藤岡 俊博 | 環境世界の彼方 — レヴィナスの「場所」の思想と人文地理学 |
石川 学 | 回帰する死のために — ジョルジュ・バタイユと精神分析 |
研究ノート
尾玉 剛士 | フランスの福祉エリート — 医療制度改革への認知的アプローチ |
森元 庸介 | 思惟の罪 — ラカンによるサドについての覚書 |
鈴木 順子 | 「虚無の信仰」認識を超えて — S・ヴェイユが読む鈴木大拙 |
クロニック
数森 寛子 | 記憶と虚構 — ピエール・プレヴェール『渡し守の家』 |
中田 健太郎 | ミシェル・オスロ『アズールとアスマール』における水平運動 |
尾玉 剛士 | 書評『メディアのヴェール イスラム・スカーフ事件という誤った論争』 |
大森 晋輔 | 「書く」と「描く」のあいだに — 2006-2007年、ロンドン・ケルン・パリで開かれたクロソウスキー展によせて |
澤田 哲生 | スタッドのある風景II — セバスチャン・ルイ『イタリアのウルトラス現象』を読む |
神山 剛樹 | 日常生活の中の音声学 |
竹本 研史 | リリアン・テュラムの闘い — 人種差別の問題とアイデンティティの問い |
郷原 佳以 | 文学、この「ほとんど何でもないもの」 — ドミニク・ラバテ『破れ鍋』によせて |
[第4号] 2006年
論文
数森 寛子 | 水没への反抗 — ヴィクトル・ユゴーとその時代における洪水のイメージをめぐって |
橋本 一径 | モルグから指紋へ — 19世紀末フランスにおける科学捜査法の誕生 |
大辻 都 | 名前のない物語は続く — マリーズ・コンデ『移り住む心』 |
石橋 正孝 | カニバリズムの修辞学 — ジュール・ヴェルヌ『チャンセラー号』の成立事情、エクリチュール、そしてイデオロギー |
安藤 智子 | アルフォンス・ルグロ作《エドゥアール・マネの肖像》 — 絵の中の絵が語るもの |
治山 純子 | フランス語の感情表現の概念化 — 恋愛に関するメタファー表現の研究 |
酒井 智宏 | 個体間の同一性を断定するトートロジー |
佐藤 朋子 | 精神分析の心理学化と〈体験されたもの〉の閉域 — ダニエル・ラガーシュによる二篇のカール・ヤスパース論(1941、1942年) |
坂本 さやか | ファンタスマゴリーと政治的偶像 — ミシュレの『19世紀史』におけるナポレオンの表象をめぐって |
谷本 道昭 | 若がえりの泉 — バルザックによるラ・フォンテーヌ |
横山 義志 | 虚構と韻律 — 近代人はいかにして脚韻の正統化に成功し、まさにそのことによって脚韻を失っていったか(1548-1826) |
塚島 真実 | 「精霊」への序奏、あるいは助走 — ランボーにおけるイエスの諸相 |
森元 庸介 | 救済と籠絡 — マルブランシュにおける説得 |
藤岡 俊博 | 「未開」心性と異教 — レヴィナスのレヴィ゠ブリュール読解 |
園部 裕子 | 「人を助ける」という生き方 — 西アフリカ出身女性仲介者のライフストーリー |
藤田 省一 | プルーストと「19世紀」 — 作品の「完成」と批評の事後性 |
石川 学 | 書くことをめぐるパラドクス — ジョルジュ・バタイユと『失われた時を求めて』 |
竹本 研史 | 絶対性の彼方にある個人主義 — サルトル思想における個人の実践と自由との関係 |
研究ノート
大森 晋輔 | 魂はどこに? — クロソウスキーと精神分析 |
中田 健太郎 | アンドレ・ブルトンにおける自動記述とコラージュ — 方法概念の余白について |
大原 宣久 | 競馬場の文学者 — ミシェル・レリス「スポーツ年鑑」をめぐって |
坂本 浩也 | 表象と言説としての文学 — 戦争文化史の観点からプルーストを再読するために |
荒原 邦博 | ルーヴル美術館をめぐる想像 — ゾラの『居酒屋』からプルーストの『失われた時を求めて』へ |
クロニック
園部 裕子 | 「希望」という名の「勇気」 — センベーヌ・ウスマン『モーラーデ(庇護権)』によせて |
郷原 佳以 | 方法のポエティック — ブリュノ・クレマン『方法の物語』に寄せて |
藤田 省一 | フルバック、あるいは失われた時空間を求めて — 2007年第6回ラグビー・ワールドカップのために |
竹本 研史 | 掛け声の不協和音 — パトリック・ミニョン『サッカーの情念』から見た庶民感情と経営者の論理 |
満島 直子 | 身体異常をめぐる思考 — アンドリュー・クラン『崇高な無秩序 ディドロの宇宙における身体的怪物』によせて |
澤田 哲生 | スタッドのある風景 — クリスチャン・ブロンベルジェ『バガテル』によせて |
谷本 道昭 | 旅と文学 – ジャン゠フィリップ・トゥーサン『フュイール』の余白に |
[第3号] 2004年
論文
満島 直子 | ディドロの《自然誌展示室》補遺 |
橋本 一径 | 人相書きの科学 — アルフォンス・ベルティヨンの「口述ポートレート」 |
工藤 晋 | エドゥアール・グリッサン『第四世紀』読解 — 語り手たちの弁証法 |
小澤 京子 | テオフィル・ゴーティエ、視覚の技術 |
南 玲子 | 「これは小説などではない」 — 『イタリア年代記』三短編に見る、スタンダールの人間研究の行方 |
酒井 智宏 | 役割関数の構造 — コンテクストと役割解釈の可能性 |
森元 庸介 | 真摯なる検閲 — 「カファロ事件」について |
阿部 明日香 | 1889年:印象派とパリ万国博覧会をめぐって — 美術とその制度に関する試論 |
研究ノート
荒原 邦博 | 画家小説と精神医学 — ゾラの『制作』からプルーストの『失われた時を求めて』へ |
藤田 省一 | 墓は至るところに — 『失われた時を求めて』に引用されたマラルメのソネについて |
郷原 佳以 | 「マラルメの神話」、あるいは、言語の虚構としての詩 — ブランショによるマラルメ |
小泉 順也 | シャルル・ブラン『全流派画人伝』と西洋美術史における「画人伝」の系譜 |
福間 美由紀 | P・シニャック『ウジェーヌ・ドラクロワから新印象派まで』における新印象派論再考 |
松沼 美穂 | 植民地支配の歴史と現在 — 「母なる祖国」を守った元フランス軍兵士への恩賞をめぐって |
金山 準 | ジョルジュ・ソレルにおける歴史と「ユートピア」 |
千葉 雅也 | 動きすぎてはいけない — ジル・ドゥルーズと節約 |
笠間 直穂子 | 関係の探求 — マリー・ンディアイユの文学 |
澤田 哲生 | スポーツを記述する方法の問題 — クリスチャン・ブロンベルジェ『フットボールの試合』によせて |
クロニック
大原 宣久 | 叫びと人間 — 「フランシス・ベイコン 聖と俗」展をめぐって |
森元 庸介 | 惑乱のステップ — 『ダンシング』について |
[第2号] 2003年
論文
三枝 大修 | 鏡張りのテクスト空間 — 『マルドロールの歌』における二重性の諸相 |
大辻 都 | 不可能なもの、肥沃なもの — マリーズ・コンデ『マングローヴ渡り』と植物的人間たち |
横山 義志 | 朗誦の記譜可能性について — ドラマにおける音楽の排除 |
伊藤 綾 | 歴史主義と現代性 — ボードレールにおける「折衷主義」と「哲学的芸術」の批判 |
南 玲子 | 観察の旅と研究者 — フランス民族学の黎明期 |
坂本 さやか | ミシュレの『フランス革命史』におけるファンタスマゴリー — 「九月の虐殺」の記述をめぐって |
神山 剛樹 | 二つの「国語」のはざまで — アルザスの仏語と独語、台湾の日本語と「國語」 |
小野 文 | 「ことばにおける主体性」を巡る二つの発話行為論 — シャルル・バイイとエミール・バンヴェニスト |
酒井 智宏 | フランス語における3種類のavec NP XP構文 |
郷原 佳以 | プロソポンとしての形象 — ブランショ『望みの時に』より |
研究ノート
泉 美知子 | 19世紀におけるロマネスク建築観 — メリメからヴィオレ=ル=デュックへ |
安藤 智子 | アルフォンス・ルグロとプリミティヴ派 — ディジョンへの郷愁 |
宮坂 奈由 | カイユボット絵画における都市細部の表現:《パリの通り、雨》 |
園部 裕子 | 「語る」ことと社会参加 — 女性移住者の潜在能力と団体活動の機能についての試論 |
折方 のぞみ | 祖国を棄てた愛国者「ジュネーヴ市民J-J・ルソー」 |
隠岐 さや香 | 18世紀の科学、技術と国家 — コンドルセの社会数学からみえてくるもの |
大原 宣久 | ミシェル・レリスとアフリカ人女性 — 『幻のアフリカ』から『フルビ』へ |
佐藤 朋子 | 「アナセミー」と時間の問題 — ニコラ・アブラハムの初期業績のクロノロジカルな分析 |
大森 晋輔 | 「神の死」の遊戯 — バタイユを読むクロソウスキー |
近江屋 志穂 | 揺らぐ境界 — アニー・エルノーの日記とフィクション |
竹内 京子 | 聴覚障害者のための手指サイン日仏比較 |
クロニック
森元 庸介 | 闇を登る — ダヴィッド・B『癲癇の発作』について |
笠間 直穂子 | 「アフリカ」の向こう側へ — ヤンボ・ウォロゲム『暴力の義務』 |
伊藤 綾 | 今さらなぜユートピアか? — ミゲル・アバンスール『ユートピア—トマス・モアからヴァルター・ベンヤミンへ』を読む |
[創刊号] 2002年
論文
郷原 佳以 | 無気味な類似 — ブランショにおけるイメージ |
西山 達也 | 必要なる響き合い — マルティン・ハイデガー「人間主義書簡」への導入 |
阿部 崇 | フーコーの考古学における「身体」の位置づけについて |
國分 功一郎 | 歓待の原理 — クロソウスキーからフーリエへ |
堀 潤之 | 断片・機知・イロニー — ゴダールとドイツ・ロマン主義1 |
熊谷 謙介 | 「自然は起こる、付け加えるものはない」 — ステファヌ・マラルメの「印象派の画家たちとエドゥアール・マネ」 |
泉 美知子 | 宗教建築の生とは何か — プルーストとバレスの文化遺産保護運動 |
大辻 都 | アンティルの母をめぐる多元的外部論 — マリーズ・コンデ「栗の実とパンの実」「ノー・ウーマン、ノー・クライ」 |
鈴木 順子 | ディオニュソスとは誰か — シモーヌ・ヴェイユによる比較宗教学的考察の試み |
折方 のぞみ | 18世紀後半のフランスにおける女性の身体の表象 |
荒原 由紀子 | 科学と宗教のはざまで — 『ブヴァールとペキュシェ』の地質学探究 |
久保 昭博 | ミメーシスと虚構 — ケーテ・ハンブルガーとジェラール・ジュネットによるアリストテレース『詩学』の解釈について |
石橋 正孝 | 表現行為としての編集 — ピエール=ジュール・エッツェルの場合 |
小野 文 | フロイトの読者、バンヴェニスト |
笠間 直穂子 | 文学のまえに — 18世紀末から19世紀中盤にかけての文法と教育 |
坂本 浩也 | メディオロジー生成のコンテクスト-(1979–1996年を中心に) |
研究ノート
伊藤 綾 | 北極光について — フランス初期社会主義ユートピア思想の精神史的読解 |
荒原 邦博 | 1889年のマネ — 『ゲルマントのほう』における万国博覧会 |
陳岡 めぐみ | 19世紀の複製エッチングへのアプローチ — レオン・ゴシェと絵画のためのイメージ戦略 |
松沼 美穂 | 本国と植民地の出逢いの場 — ヴィシー政権の帝国祭典 |
園部 裕子 | 国民国家・福祉国家の変容 — アフリカ系女性移住者の連帯による問いかけ |
坂本 さやか | 19世紀の視覚文化と文学 |
クロニック
森元 庸介 | 想起と作品 — 『ペルセポリス』について |
笠間 直穂子 | 笑い止む瞬間 — 作家としてのアルフォンス・アレー |
大原 宣久 | 恋と革命の周辺で — エリック・ロメール『グレースと公爵』について |
阿部 崇 | 新たな「音楽」の到来 — サイモン・ラトルとベルリン・フィル |
神山 剛樹 | Ronaldoと「ロナウド」 — 音変化と借用語表記 |